映画『怪物』を観て
映画『怪物』を観てきました。
おそらく様々な側面から語られるだろうし、語りたくなるようなとても面白い映画でした。『怪物』というタイトルも、自分に捉え直して考えることを迫られるような気持ちになります。私も怪物になったことがあるし、他人や家族が怪物に見えたこともある。あの時怪物にならなければ生きてこられなかったとも言えます。
今もどこかで生きている
この映画は、もちろん教育映画ではないし、何かを正す役割を持っているわけでもない。
人間の営みを誰かの目線でなく、神の目線で眺めたら、眺めることができたら。ストーリーはどこからでも始まるし、人によってはズレて始まるかもしれない。そして終わりなどない。伏線が回収されようがされまいが、ストーリーがあるべき場所に着地しなくとも、登場人物の人生は続いて行く。今も彼らはどこかで生きているのだ。わたしのように、誰かのように。
火と水
序盤のシーンである、消火活動を遠目に見ながら少年の母親が言う「がんばれー」が終盤になって響いてくる。
火も水も災いになりうるし、生きる上で欠かせないものでもある。破壊と再生、どちらの側面も持っている。見る角度で意味が全く変わってくる。普段から神の目線で見ることができたら、
物事の捉え方が違ってくるだろう。神目線になれないからと言って諦めることはない。想像力がある限り。
銀河鉄道に乗って
二人の少年は冒険の末、自分たちの手で自由を獲得した。そうやって今も、ジョバンニとカムパネルラは姿を変えて存在しているのだと思う。二人の関係性に名前などつけなくてもいい。二人が心地よければそれでいい。
Aqua
映画のエンディングで流れる坂本龍一さんの「Aqua」がとても良かった。少年たちの未来が希望に満ちあふれたものだと思えるような曲だった。「Aqua」の元曲である坂本美雨さんの「in aquascape」の
その愛に気づくことが
この星を美しくしてゆく
という歌詞がストーリーと重なって聴こえてきます。
生まれ変わらなくたって生まれ変われるのだと、二人の少年が私に教えてくれたような気がします。
冒険は誰のもの?
美しいラストシーンを見ながらも、冒険は少年だけのものじゃないのにな~とモヤッたのもまた事実。是枝裕和監督作品は少年がメインになることが多いような気がするので(今回の脚本は坂元裕二さんですが)、少女を真ん中に据える作品を観てみたいです。
『怪物』では女子の存在が傍観者的な役割なのは何か意味があるのだろうか?とか高畑充希演じる彼女の描き方など、モヤモヤは残りました。2時間では描き切れない部分も見たいので、ドラマ化してはどうでしょう?WOWOWやNetflixで是非。