Dancing with an Angel

言葉を見つける追いかけるつかまえる

NHK特集を見て

先月、NHK特集の安楽死についてのドキュメンタリーを観てその感想を書こうと思っていたのですが、

あまりに衝撃的な内容だったため、考えがまとまらず書くことにも躊躇してそのままになっていました。

 

ですが、やはりもやもやした感情が残ってしまった。

自分の中でまとまるはずなんてないのだから、まとまらないまま書いておきます。

深夜の再放送を途中から見たので、本当はもう一度ちゃんと見たいというのもあります。

 

このドキュメンタリーは、

安楽死を決めたある日本人の女性の生活と人生を追う形になっています。番組終盤で安楽死は実行され、2人のお姉さんたちに見守られながら息を引き取る瞬間までカメラを回し続けています。

 

どう表現したところで不謹慎だと言われるかもしれないですが、

長い長いトンネルを抜けた先に安楽死があったのだと、それしか思えなかったのです。

 

彼女の病気の苦しみは、たぶん彼女にしかわからないし、想像力さえも行き倒れてしまうと思うほど彼女の痛みも感情も遠くにあって追いつくことが出来なかった。

 

よく「生かされている」などと言いますが、

これはある意味ではプレッシャーを与える言葉なのだと。安易にこの言葉は言えなくなってしまった。ひとに「生きろ」と言うのも傲慢なのかもしれない。

 

安楽死のために渡ったスイスでの彼女の笑顔を見ていると、

死の選択の自由を誰が奪えるのだろう、奪えることなどできないと思ってしまう。今までの苦しみに思い馳せると。

 

 

だからと言って死んで欲しくない。

この気持ちもまたエゴなのだと。

お姉さんもインタビューで語っていたような気がする。


死ぬことは生きることと同じくらい大切なもので尊重されるべきもの。

 

自ら生を選ぶことも死を選ぶことも、同じくらいの重さで語られなくてはいけないし、安楽死を触れがたいものとせずこれから活発な議論が進むといいと思います。

 

大切なのは本人がどう思っているかだと思います。

 

人間というものが神の手のひらにあるものではなく主体性を持って生きる存在なら

寿命は自分がそう思った時であっても、何ら不思議ではないのではないか。

 

彼女の最後の2日間を見ていて思ったことは、

生と死は地続きで

境界線なんてとても曖昧なもの

ということ。

 

あのスイスでの短い時間は、

彼女の生と死を擬似体験しているような不思議な時間でした。

見終わった後も何度も何度も自分に重ねて、あの部屋で過ごした時間を考えていました。

 

生も死も、

空間から空間へ

時間から時間へ

旅していることに変わりはない。

 

番組の主旨とは関係ないかもしれないですが、

哲学的な視点で考えるきっかけを与えてもらったと思う。

 

彼女の新たな旅が、

彼女が思う形の幸せなものであるよう願います。